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Presents Vol.35

弊社代表 安田のメールマガジン アーカイブです。

[夢がないことは悪いこと?]

「夢」を持って生きなさい。
おそらく誰もが一度はそんな言葉を聞かされた経験があるのではないでしょうか。
ほら、イチローも松井も夢を持っていたから成功できたんじゃないか。
だから「夢」は大切なんだよ、と。

たしかにそうでしょう。異論はありません。
けれど、ならば夢を持てないことが悪いことなのか。
僕自身、やはり子ども時代から夢を持てと言われ続けました。
しかし人生をかけるほどの夢などそう簡単に見つかるわけがありません。
いつしか、夢を持てない自分は人間として欠落しているのだ。
そう思うようになり、劣等感さえ抱くようになりました。

あるとき、さる有名な飲食チェーンの社長がテレビに出演していました。
大学生たちを前に、君たちは夢がないからだめなんだとハッパをかけていたのですが、
その彼の「夢」はというとチェーン1000店舗の達成だとか。

けれど、この会社は過酷な労働環境で有名です。
カリスマ社長のワンマン体制。
成果主義が徹底していて、成績の悪い店長はすぐに飛ばされます。
しかも店員はほぼすべてがアルバイトスタッフ。
おそらくそこにはロイヤリティもないし、働く喜びを感じる人も少ないのではないでしょうか。

たしかに社長の夢は1000店舗の達成かもしれません。
けれど、そのことで今以上に成果主義が加速するはずです。
それで働く人が幸せになれるのだろうか。
僕は考え込んでしまいました。

「夢」という美名のもとであれば、何でも許される。
たとえ誰かの人生を狂わせても、夢なら許される。
そんな風潮があるように思います。
けれど、そんなバカな話はありません。
それは夢という名の罪ではないか。

「夢」の定義とは、じつはほとんど語られていません。
夢という言葉の前にすべてが肯定されてしまう。
けれど僕は、夢とは他人を不幸にしてまで持つものではない、そう思うのです。
それはパーソナル=個人だけに帰属するのではなく、
パブリック=全体の幸せに寄与するものでなければならない。
これを僕自身、夢のひとつの定義だと考えます。

そして、それほど大きいものが夢であるなら、持てないことに劣等感を感じる必要などないし、
人に強要するのもおかしい。
ただし、夢が人生の推進力となるのは間違いありません。
だから、それに近いものとして、夢でなくても、もっと現実的で身近な「希望」をかかげて生きる。
それによって今よりはるかに生きやすくなるのではないか。
そして、希望が持てるようになれば、徐々にモチベーションも上がり「夢」をもてるようになるのではないか。
そう思うのです。


[憧れの仕事に就くことは、夢ではない]

「夢」の実現とは自己実現である。
こんな言い方もできると思います。
夢の実現=自己実現は、とくに若い人たちにとっては職業とイコールと思っている場合が多い。
夢は?と聞かれれば、プロサッカー選手、起業して社長になるなどと答えが返ってきます。

たしかに、まず自らの適性を知り、それを伸ばせる職業に就くことは、
人生を充実させるために大切なことです。
けれど、その職業に就いただけで人は夢を実現できたと感じるでしょうか。

違うはずです。
たとえばサッカー選手であれば、自分がプレイすることで多くの人に感動を与えられた、勇気を与えられた。
そして、そのことによって賞賛や評価が得られた。
そのとき、自分自身の存在意義を強烈に感じることができます。
じつはこの自己評価と他人評価が合致したときこそが「夢」の実現と呼ぶべき状態ではないでしょうか。

そう考えると、職業に対する誤解もまた見えてきます。
多くの人は職業選択を目的(=夢)と考えがちですが、違うのです。
それはあくまで手段。
その仕事によって人に何を与えることができるのか、どれだけ多くの幸せに寄与できるのか。
その手前に職業があり、さらにその手前に適性がある。
そこをきちんと見据えなければ職業選択を誤ることになる。
そして終わらない自分探しに苦しむことになるのです。

個人=パーソナルな夢は、単なる欲望にすぎない。
それでは周りから評価されないし支持される訳もない。
目指すべきは、他人=パブリックのことを想い、
より多くの人の幸せに寄与できる人生。
自他ともに幸せになっていくこと。
自分の社会的成功が人の役に立ち、喜んでもらえる。
これほどうれしい事はないと思うのです。
それこそが真の喜びであり、自己実現であり、
それを目指す行為こそが「夢」なのではないでしょうか。
僕はそう思っています。