自分の寿命があとどれくらい残されているのか。
もちろん、誰にもわかりません。
病気で余命宣告された場合は別に、普段から寿命を意識して生きる人などまずいないでしょう。
けれど、当たり前ですがいのちには限りがあります。
30才の男性が、日本人男性の平均寿命78才まで生きると仮定しましょう。
残された年数は48年、日数に換算すれば17520日です。
さらに定年退職65才まで働くとすれば、定年まで残された日数は12775日となります。
これをまだ12775日あると考えるか、あと12775日しかないと考えるか、それは本人次第ですが、
いずれにせよタイムリミットはある。それだけは事実です。
いのちの有限性を思えば、人の生き方は変わるはずです。
その限りあるいのちを、果たして自分は何に注ぐのか。真剣に考えざるを得ないからです。
けれど、もちろん僕を含め、そこに思いを寄せながら生きている人がいったいどのくらいいるでしょうか。
何のために生まれ、何のために死んでいくか。
人生の意味を正面から考えることなしに、日々の忙しさに追い立てられ、
あるとき気がつけば年をとりすぎた自分がいる。
そんな浦島太郎のような人生は、あまりに虚しいはずです。
しかしながら、私たち現代人は、そうした人生のほうがもはや当たり前になっている気がします。
なぜこんなにも生き急がされるのか。
何がそう駆り立てるのか。
それは私たちを取り巻く市場原理主義です。
競争を根本とする資本主義は、加熱しすぎれば、人の心から余裕を奪い去る。
明日の成果ばかりを求め、10年、20年という長い目で物ごとを見ることを許しません。
いま、世界を覆っている市場原理経済とは、まさにその資本主義の暴走です。
優勝劣敗を鮮明にし、負けた人間が消耗品として使い捨てられる世の中。
それが果たして、たった一度の人生を託すに足る世の中なのでしょうか。
GNPやGDPをいくら上げても人は幸福になれない。
これまでの歴史がもうそれを証明しています。
どんなに経済の数字を拡大させても、人が幸せになれなかったら何の意味もないのです。
自らいのちの有限性を意識し、それを注ぐ対象を見つけることこそ、幸福な人生の条件です。
そのために、まず立ち止まって人生の意味を見つめる時間が必要です。
それができる社会に変えていくことが必要なのです。
いのちを注ぐ対象とは、人によってさまざまだと思います。
けれど僕自身は、仕事がその大きな対象となるのではないかと感じています。
なぜなら、起きている時間の7割のリソース(資源)を費やすものが仕事だからです。
そうであれば、仕事の充実度とは人生の充実度となり得ます。
僕自身、企業経営者という立場にあります。
働く社員の人生が幸福であるために、経営者として何ができるのか。
そう考えたときに、やはり生きた証となるような充実した仕事ができる環境を与えることだと思うのです。
仕事とは、誰かを傷つけたり、誰かから奪ったりするものでない。
それは「誰かの笑顔を作るためのもの」だと僕は思っています。
その笑顔の対価が報酬です。
そうした仕事であれば互いを幸せにするし、充実感も得られるのです。
競争に明け暮れ、お金を追い求めることで
幸福になれないことだけはたしかです。
幸せとはなにか。
自分が、周りが、幸せになるために何をすべきか。
今こそ個人が、企業が、社会が
真剣に考えるときではないでしょうか。