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Presents Vol.20

弊社代表 安田のメールマガジン アーカイブです。

ネイチャーサイエンス -後編-

[顕在意識と潜在意識]

人が何か未知の分野に挑戦する場合、このような成長プロセスをたどります。



車の運転を例にとりましょう。
生まれて初めてハンドルを握るとき、ほとんどの人は恐怖を覚えます。
おっかなびっくり運転をしている最初の頃は、事故を起こしたらどうしようと不安です。
そこから少し経験を積むと、普通に運転ができるようになります。
そして自信が生まれ、やがて自分の運転技術に確信がもてるようになります。

こうした成長プロセスは、おそらく誰もが経験していることでしょう。
しかし、では確信が成長のゴールかといえば、そうではありません。

その先には、平常心があります。



平常心とは、何事にも動じない精神状態のこと。
これは成長プロセスの“普通”とよく似ていますが、別物です。
その違いを作り出しているのが、顕在意識と潜在意識です。

顕在意識とは自分で自覚できる心のことであり、
潜在意識は自覚できない心、いわゆる無意識のことです。

恐怖から確信までは顕在意識が、
一方、平常心は潜在意識が管理する領域です。
先の運転の例で言えば、最初のうちは
「ウィンカーをこのタイミングで出そう」
「信号が赤になりそうだから減速しよう」
などと常に意識しながらハンドルを握っています。
けれど、ベテランドライバーになればいちいちそんなことを頭で考えたりはしません。
いわゆる“身体で覚えている”状態で、無意識に運転をしています。

さらに、顕在意識と潜在意識では、こなせる作業の数にも違いが出ます。
たとえば運転は、慣れてしまえば音楽を楽しむ余裕もできます。
併走する車を意識しながら、100m先の信号を確認し、さらに同乗者とたわいない会話をする・・
こうした複数作業を同時にこなせるのが潜在意識。
一方、不慣れなうちは運転以外のことなどまるで頭に入らないように、
一度にひとつずつの作業しかできないのが顕在意識です。

もし営業マンであれば、
相手の表情を観察しながら質問に答え、次の展開を考えながら話をする。
そんな高度な同時作業が求められますが、
それをするには仕事のレベルを潜在意識まで成長させる必要があるわけです。

この平常心=潜在意識まで至るには、図で示した、
恐怖や不安から始まる成長の階段を一段ずつ昇っていくほかありません。
つまり、最初は意識して「ここでウィンカーを出そう」でいいのです。
反対に言えば、それらをしっかり一定量こなしていくことで、
間違いなく潜在意識へと近づいていけるのです。

そのとき大切なのが、あれもこれもと、
一度に欲張ってやらないこと(上司であればやらせないこと)。

たとえば、“1+4”と“2+3”を同時に考えることはできません。
なぜなら、前に述べたように、
顕在意識レベルではひとつの作業しかこなせないからです。
営業マンなら、相手の話を聞く、表情を観察するなど、
まずひとつのスキルに集中して、それを確実にものにしていく。
それが平常心=潜在意識に達する早道だといえます。


[平常心の先にあるもの]

平常心まで達することができれば、ビジネスの世界では一人前といえるでしょう。
しかし、より高いレベルの成功には、それだけでは足りません。

そこには、情熱や信念が必要です。



ご覧のとおり、平常心と情熱・信念の間には、ひとつの境界があります。
それが、パーソナルとパブリックという概念です。
平常心までは、自分自身を高めようとする段階。
運転手なら自分の運転スキルを、接客業であれば自分の接客スキルを高めようと努力し、
平常心に至ってそれが実現します。

しかし、それはあくまで自分のため(パーソナル)でしかありません。
そこからもう一歩進み、「誰か(周囲=パブリック)のために」と考え、
行動を始めたときに平常心は情熱へ、信念へと階段を昇っていきます。

たとえば、高校野球が多くのファンを獲得している(=成功している)理由は、
そこに情熱があるからではないでしょうか。
ひたむきに練習を重ねて自らを高め、しかもチームメイトとしてお互いを助け、励まし合う。
その姿を見たとき、人はたまらなく魅了され、応援したい気持ちになるのです。

さらに、信念とは、成長の最高の段階です。
信じる確固としたものがあり、それに命を懸け、多くの人の幸せに寄与しようとする精神。
もちろん、たやすく持てるものではないし、貫き通す覚悟が必要です。
イエス・キリストやマザー・テレサなどはその究極の存在といえるでしょう。

平常心を超え、情熱や信念の域に達する。
真の成功とは、この段階に至って初めてもたらされる。
僕はそう思っています。

最後に少々余談になりますが、
顕在意識とは脳ではなく心臓にある、そんなふうに想像しています。

たとえば心臓移植をすると、
そのドナーの友人を覚えていたり、食べ物の好みが似るなどということがあります。
不思議なことですが、
僕は、心臓は脳のように記憶や思考の一端を担っているのではないかと思うのです。
つまり、顕在意識は心臓にあり、潜在意識は脳にある。

感動したり、哀しくなったりすると人は思わず胸を押さえます。
“感じる”意識が心臓にあるとすれば……つまり、ハート(心)は胸に実在した、というわけです。
心臓と呼ばれる理由、すなわち“心の臓”と呼ばれる理由も、ここにあるのではないでしょうか。

考えることや感じることは心臓が司り、
無意識の行動は脳が司る。
ちょっとロマンチックすぎる発想かもしれませんが、
いかがでしょうか。