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Presents Vol.07

弊社代表 安田のメールマガジン アーカイブです。

有益と無益と有害

人に尊敬されたい。
経営者には、とくにそうした願望を強く持つ方が多いと感じます。
それが自分自身の人間性を高める行動へとつながればよいのですが、
安直に自分を尊大に見せている場合も少なくありません。

尊大とは、言ってみれば自分を等身大以上に見せ、
相手をひれ伏させる行為です。
そのゴールは、多くの人間を従わせること。
たしかに、そこにはある種の快感があるのでしょう。

しかし、果たしてその行為は経営者にとって、
また人の上に立つ者にとってどれほどのメリットがあるでしょうか。
実際、尊大にふるまう人に限って裏では悪口を言われているものです。
部下からちやほやとおだてられ、周りはイエスマンだらけ。
だれも助言、進言をしてくれません。
気がつけば裸の王様です。

たしかに社内において圧倒的な権限を持つ以上、
よほど気をつけているつもりでも知らず知らずに尊大になってしまいます。
しかし、その尊大さとは、
皮肉にもその経営者が欲する尊敬から最もかけ離れた、
軽蔑という感情をもたらすことになるのです。

僕自身、経営者としてもちろんこれは他人事ではありません。
そして、そうならないためにも自分の行為に対して
ある判断基準を設けることにしています。それはその行為が
「有益か、無益か、有害か」という視点です。
たとえば尊大にふるまうことは本人にとってたいへんに気持ちがよく、
一見有益に思えます。しかし、実は全くメリットがない。
それどころか無益を超えて有害となります。

僕の会社にもそうした例がいくつかあります。
ある社員は、お客様に対して非常に丁寧な振る舞いをします。
しかし、丁寧だけならよいのですが、それがあまりに度を超え、
言葉は悪いのですが周囲から見ると卑屈にさえ感じられるのです。

もちろん、本人は自分がそうするべき、
そうしたいと思ってやっている行為です。
言ってみればそれが自身の営業スタイル。
それなりの結果も生み、さらにはお客様にも喜んでもらえていると思っています。
本人は有益と感じているはずです。

しかし、周囲はなぜかよい気持ちになれません。
また、彼流の丁寧さで扱われたお客様も、
彼をそれだけ尊重してくれるのかといえば、その場ではそうかもしれませんが、
長い目で見るとむしろ軽んじられることが多いようです。
さらに、彼の部下にとっては上司が軽々に扱われるのは屈辱のはず。
つまり、彼の過剰な気遣いとは有益に見えて、実は有害だったのです。

もちろん気遣いは美徳、常に一定量は必要です。
しかし何事も度が過ぎると逆効果。
相手からはこちらの本心が読めず、警戒されてしまいます。
プロの営業マンなら堂々と振る舞い、
自分の知識・経験をもとに意見をはっきり伝えればいいのです。
相手もそれを望んでいるはずです。
本心を見えなくし、自信も感じさせない態度では、
結局は軽んじられていくのです。

僕はそのことを本人に告げました。
これは本人のプライドを傷つけることになり、ほんとうにつらいことでしたが、
それでも見て見ぬふりをする方が彼自身にとって有害だと腹をくくりました。
ほんとうは何が有益で、何が有害か。
その場でよかれと思う行為でも、
長期的な視点で見るとマイナスを生むことだってある――。
彼はもとより非常に優秀な男です。
じっくりと話し合うことで、きちんと理解してもらえました。

また、ほかにもこんなことがありました。
その社員は、社内のある議論がきっかけで、
「しょせん人と人は分かり合えないのだ」という答えに達しました。
それではあまりにつらい。
そうであれば最初から誰とも分かり合おうとせず、
ひとりで自給自足の暮らしをしたほうがましだとさえ言うのです。

たしかに自給自足の暮らしであれば、自分のことだけを考えればいいわけです。
傷つくこともなく、本人にとっては有益。
周りの人間にとっても、一切の関与がないので無害なことに思えます。
しかし、たとえば彼の親はどう思うでしょうか。
コミュニケーションを断絶した息子を見て深く悲しむのではないでしょうか。
兄弟、友人、将来の結婚相手、果ては生まれてくる子供にとってそれはどうでしょうか。
大きな悲しみをもたらすのではないでしょうか。
つまり、これも有益に見えて、実は有害な行為なのです。

たしかに、人と人が分かりあえないのは仕方がないかもしれません。
長い結婚生活でも伴侶の意外な一面を見つけるように、
違う人間である以上100%分かり合えると考えるのは愚かでしょう。
しかし逆に1%も分かり合えないと思うことも同様に愚かです。
人間同士、幾ばくかの共有はありえるし、幾ばくかの理解はありえるはずです。

そもそも人間には「分かってほしい」という強い欲求があります。
それが強い分、達せられないときには、
彼のように怒り・悲しみへと転換します。
しかし、逆に自分は相手のことをどれだけ分かろうとしていたか。
そう考えると、ほとんどの人は下を向くのではないでしょうか。
分かってほしければ、まず相手を分かろうとする。
当たり前のようですが、この分かろうとする努力を積み重ねていくことこそが、
有益な考え方なんじゃないだろうか。僕は彼にそう言いました。
すると彼は、安堵した面持ちできっぱりと
「今日からその考え方は、やめます。」と答えを出してくれました。

パーソナル(個人)だけではなく、
パブリック(周り)の視点を持ちながらあらゆる判断・行動をすること。
これは実際できそうで、なかなか難しいことです。
しかし、自分(パーソナル)のことだけを考えた結論では、
周り(パブリック)への視点が抜け落ち、結局は誰かを傷つけます。
真の有益さとは、自分だけの幸せではなく、
周りの幸せまでもしっかり考えた行為からのみ生まれるものです。

有益か、無益か、有害か。
言ってみればたったこれだけのモノサシですが、
心に留めておき、何事も判断・行動するクセをつけると、
パブリックの視点を持つことができ、
よりたくさんの笑顔を生み出せるはずです。
それは多くの人を、現在よりもはるかに幸せな人生へと
導くことになるのではないでしょうか。
もちろん僕自身もまだまだ途上で
反省の日々を送る毎日ではありますが、
長い時間をかけてでも
その判断軸をしっかり作り上げていきたいと思っています。